『上を向いてアルコール』

最近読み終えた本


『上を向いてアルコール 
「元アル中」コラムニストの告白』
小田嶋隆 2018年 ミシマ社


二〇代の終わりからアル中となり、「四〇で酒乱、五〇で人格崩壊、六〇で死にますよ」と三〇代で診断された小田嶋さん。それから約二〇年お酒を(ついにはタバコも)嗜むことのない日々をおくり本書が生まれた。

わたしはね、この本を読み、自分がアル中であることを確信せざるを得なくなった。連続飲酒発作こそないものの、飲み方も性格もかつての小田嶋さんと重なるところ大。(連続飲酒発作=朝から飲み、吐くまで飲み、点滴必要なレベルにまでなる。これを繰り返すことらしい)。

小田嶋さんは言う。ドラマで見るような(アルコールが切れると)手が震えてしまったり、酔って大変な事件を起こしてしまったり、そういうのだけがアル中ではなくて、たいていのアル中は隠花植物のように静かに暮らしているのだと。そして「まともな人のフリ」が上手な人も多いのだと。

(ちなみにアル中ながらもわたしが日常生活を送っていられるのは、遺伝的な酒への適応力が大きいからだろう。今思えば二〇代半ばのOL時代から飲み方も飲む量も立派なアル中であり、社会的マナーを逸脱したり破綻行動を起こしたことも数えきれず……。また、お酒に物語を求めるよりも「(小田嶋氏曰く)値段と度数で割り算を始める世界の住人」なのだ)。

一般的には「アル中になることで人が壊れる」ととらえられがちだが、小田嶋さんはそれに意を唱える。アル中になるにはもともと「考え方の問題」など、その人のなかに原因があると。

「飲んでしまう」原因につき、小田嶋さんは色々と語るのだが、わたしが特に印象に残ったのは、次のくだり。

特に私みたいなタイプの人間は、元来が扱いにくくてすぐにヘソを曲げがちな人間である自分をなんとかなだめるための方法というのか手段を持っていないと、他人とか社会とか仕事とか以前に、自分自身と折り合いをつけることができない。(改行)。つまりまあ、わがままに生まれついてしまった人間は、他人から見れば好き放題に言いたいことを言っていてえらく気楽に見えるのかもしれませんが、本人としては、自分を機嫌よく保っておくというそれだけのことにいつも苦労している。だから、ファンタジーであれ酒であれ、自分がだらしなくしていられる場所や自分を楽にできる心理的な詐術のネタみたいなものを持っていないと、身がもたないわけです。(144頁)

かつての小田嶋さんはアルコールを体に入れていないと身の置き場がなかったのだと思う。なぜなら、わたし自身がそうだから、解るのだ。アルコールは世界で一番身近なドラッグといわれる。

(メモ 小田嶋さんが「あの世界では古典的名著」と称する『危ない薬』を著した青山正明さんは「依存物質があるのではなく依存体質があるんだ」と繰り返し主張されていたらしい)

そんな小田嶋さんが脱アルコールできたのは、(久里浜の病院でさんざんアル中を診て、イヤになっちゃって、もうアル中患者は診ないと決めていたのに)「あなたはインテリのようだからもしかしたら治る可能性がある。だから特別に診てあげる」という医師との出会いがあったからなんだね。本書のなかで小田嶋さんは振り返る。

あのとき先生は、アルコールなしの別の人生を、習慣としてではなく、アタマで考える計画的な行動として人工的に企画立案する能力のことを、「インテリ」という言葉で説明していたわけですね。(169頁)

本書はアルコール漬けだった時代の回顧・分析に多くのページを割いており、どういう治療を経たのかは簡潔に記されているだけだが、読み手のわたしにそのことへの物足りなさは、ない。治療法云々よりも、なぜ自分が飲んでしまうのか?客観的に省みて、ならばどうすれば飲まずにいられるのだろうか自分の場合は、と考えられる能力があってこそ、断酒継続ができるのだなー。と学んだよ。(そしてわたしにはムリだとも思う)。

最後のほう、アルコールとは離れて、人生の時間をつぶすこと(生きる、それはすなわち時間つぶしなわけで)について書かれており、ちょっと考えてしまった。わたしはこれまで、世の人々が「好きで自然発生的に趣味とかもっている」のかと思っていたのだが、それは実は好き以前の「努力」だったりするのねー。(わたしも努力しよ!)。

それにしても、小田嶋さん、太宰が傷つきやすかったのは心が汚かったから人間が曲がっていたから、とか、お茶の味を分かり知識もあるのに「別にリプトンで苦しゅうない」とか、すらすら言っちゃうの、好きだなぁー。長生きして小田嶋節をもっともっとわたしたちに投げかけて欲しかったなぁ。

らぶ、小田嶋隆さん。