いつかの未来は単なる思い出

大昔の苦しかった日々も、今となれば懐かしい時間であり、許せるというか「今の自分で、今の時間と交代できるならば交代してみたい」と感じるくらいなのだから、昨今のつらさだって、いつかの未来は単なる思い出になる。

ただし戻ってもいい苦しい時間というのは「大人になってから限定」だな。子供時代のつらい感覚には戻りたくない。

(なにがあったんだろうー。自分。なぞ)

 

昨晩寝床に入ってから襲われたあれこれは・・・
「怒り」と「求める」のはざまが書かせたのだな。
その手綱を引いてるのは「妬み」。

もはやこのレベルだ

【怒りを病気としてとらえます。うつや不安を誰しもがもっているように、怒りもあまりに強くて自己コントロールができないのであれば、気分の調節の障害として見ていく必要があります。怒りが本来の性格とか人格障害とかではなく、病気としてとらえたとき、新たな治療の方針が立つのです】

 (廣瀬久益bot 2023年1月7日より)

 

 

(2023年1月上旬メモ⑤)

 

怒りの湖から

今、(というかかなりの期間)、心の武装できていない。当面の目標は、そよそよと、にこにこと、時にへらへらと、心の武装できる人間に戻ること。武装していれば、いくらかは自分で自分を誤魔化せる。今は余りにトゲトゲしてて、自分の心に触れるたび重症化を増す。



特定の過去の自分の感情が何処から来ているのか…うっかり考えてしまい、やっぱりそれか!と判り、苦しみの輪のなかぐるぐる🌀 そっかー、そうなんだなーと納得しつつ、ぐるぐる🌀 だってわたし他にはそんなことで怒ったことないもんな~。(その次の時は哀しみの積み木が崩れた)。「たかがそれくらいで」と思うことの裏にはしっかりした理由があったんだ。

以下暴言

お金をとってカウンセリングしているというその人が(わたしからしたら)「表面的なこと」しか見ていないのをずっとんん?と思っていたが、その時は「表面しか見ない」最たるものだったな。表面的なことしか見ないどころか、それに対しての条件反射をしてきた(クライアントを黙らす圧力。なぜ?とは一言も尋ねず彼自身の思い込みをぶつけてきた)、カウンセラーとしてはあるまじき行為ではないのか。その人は自分の過剰な自信にのっかって「状況を俯瞰で見る」ことを忘れてしまったのだろう。そしてわたしはその人の思考に則して「わたしの怒りのもと」を思い込んでしまっていた (そんな単純なことじゃないだけど、と思いつつ)。やっぱりそんな単純な話じゃなかったんだなぁ🙄 その人の思い込みをわたしは自分の中にも取り入れてしまって、深いところにいる自分に気づいてあげられなかった


さらに暴言

わたしの言動ひとつで態度をころころ変える人だった。とてもあからさまに。そのころころを彼は「調整」と呼んでいたが、わたしはその人のあまりに触れ幅ある態度が堪え、随分へとへとになった。

(そして「調整」ならぬ、わたしにとっての「仕打ち」を受けるたび、わたしはわたしを責めた)。

 

「あなたは関係性をおのれの気持ち良いところにもっていきたいがため、そういう態度をとってきたようにわたしには見えてしまう。ころころ「調整」を突き付けられる、相手の立場を想像したことありますか?」、心の叫びが、やっとわたしのなかで生まれるまでになった。

今となればあれは「その人の気分の波」だったとも言えそうだ。


はー。

一生悪口書けるだけの題材がある…しかしどこかでキリをつけなくてはわたしの身が持たない。



(2023年1月上旬メモ④)

 

 

恥は身体感覚

「人に悩みを打ち明けられないのはなぜ?臨床心理士が解説する「恥の感情」との向き合い方」(ヨガジャーナルオンライン)の記事を読んでメモ ⇒

ブレネー・ブラウン氏「恥とは自分の欠陥ゆえに愛や居場所を得るに値しないと思い込む、激しい痛みの感情または経験である」

岩壁茂氏「恥は理屈抜きの身体感覚として襲ってきて、恥を感じる対象が具体的な行動だけではなく、その行動をした「自分という存在そのもの」にも及び、そして、恥は関係から遠ざかる孤立の方向に向かいがち」


「恥は理屈抜きの身体感覚」
「恥は関係から遠ざかる
孤立の方向に向かいがち」。

ああ、まさにそれそれ🤣

「身体感覚」というのがぴったり!



はああ~

閉じた生活で嫉妬がやってくると
自分を蝕むしかなくなる

→ 引きこもりを少しでもほどく


(2023年1月上旬メモ③)

 

 

呪詛を解く

お風呂の湯をためてる間に約一年前の年末年始の(自分の)日記読んだら……面白い🐸🧡
今とは全然違う世界に生きている!

そしてものすごく頑張っている
今のような孤独感のかけら、全然見当たらない!
びっくりだよ! 一年前の自分。
(今とは物理的に比べようもなく大変なんだけど、すこぶる前向き!)
ちっとも下を向いてない自分がいたよ…

いつからこうなっちゃったんだろう~と考える必要はなく、答えは毎日毎日知っている。



ささやかな明かりを見つけるためにもがいているのだが…
苦しさはちっとも減らない

病気を機にメモし始めたSNS、あまりにドロドロ出してきたから、葬ってしまおう~と考えたのだけど、約一年半余り思った以上に濃厚な付き合いをしてしまった。(吐露の土俵)。少しは人様と関われるような恥ずかしのハードル低いアカウント作ろうと思ったけど、使い分けるのムズカシイなー。(恥ずかしのハードル低いのに一本化するのは……)

あまりに辛いメンタル。物理的な(ネットとのかかわり)見直しを図ろう計画。
見直しは見直しで色々大変。馴染んだものが一番ラクというのはある。

でもそれは現時点での話であり、変化に対処し続けてたら、いつかそれは「馴染み」になるのかなぁ

嫉妬や僻み。そういうものから距離を取るためにも、ネットの視線を変えた方がいい のは解りきった話



そもそも僻むなんて近年の自分にはあまりというか殆どなかったことで、Hさんのことを拗らせてから出会ってしまった辛感情なんだな
中年後半期の拗らせ、身を切るほど辛い。もしかしたら身を切るよりも辛い。

Hさんに近付かなかったらこんな己を蝕む体験しなくてすんだのに~とは思うけれど、過去は変えられない。
いいことゼロの心身痛め付けるだけのこの思い

いっそHさん死んでくれたら、この苦しみ止まるのに
と思ったこともある。

死んじゃったら、相手への後悔と感謝の気持ちに心が塗り替えられそうだから(酷い話だ)
酷い話なんだけど、そうでもないとこの執着は収まらないぞ…と
そういう頭の回転
ほんと「自分のエネルギー(執着)」に呆れる
Hさんに逢えるなら自分の寿命が縮まってもいいと、神様に取り引き持ち出したいくらい

じぶんへの呪詛を解きたい
かけた記憶はないんだけど、過去生辺りでかけたとしか思えない。苦しい。



過去の日記をふりかえることは殆どないのだけど、先ほど一年程前の日記を読んで……、そしたら以上の愚痴がつられて出てきてしまった。


(2023年1月上旬メモ②)



もしもいつかの将来読んだとき「2023年投げ出さないでよくやった」と素直に思える日記であれー

 

 

違う窓

最近の書き散らし・・・



人ではなく行為を憎む
(いや本当は行為すら憎む必要はない)

その底にあるものを理解すれば憎む必要などないのだろう。



誰かを思いやることは自分のエゴと表裏一体。(先月「境界線」をうまくひけなくて苦しんだのはそれ)。



何不自由ない生活で贅沢満点 という気持ちと、よくこんな生活やってんな という気持ち。常にダブル。

このまま、なのが苦しいなら、このままを変えるため現状を見つめる必要がありそうなのだけど、現状見るのが気絶するほどこわい

「変えるじゃなくて受け入れるだよ」と頭遊びしそうだけど、そもそも、受け入れるって、なんなのだ

「環境を変える」 なにを? どうやって?

まずはSNSを捨てようと昨年から思っているのだけど、なかなか~

ひとまず、自分を「受け入れる」とは「甘やかす」ことではないのはわかる。頑張れ自分。なにを頑張るの?

違う世界を見つけなければならない。違う窓。

属性は関係ないのだ。YESと言った者から祝福が始まる。・・・ということを去年のプライドパレードで感じたな。



(2023年1月上旬メモ①)

 

 

 

サボりまくっていたから

日記にはなんでも書いてるポーズとり実は何にも書いてない
どうやったら自分と対話できるんだ?
自分レスキュー



そうか、どうしてダメな台本ばかり書いてしまうのか。純粋な「好き」だけではつらすぎるから、はちゃめちゃ自滅な台本を用意してるんだね。自分。(追記。2023年1月中旬になっても「幸せになる」台本を書けないでいる)



生きてるだけで辛いとか孤独を感じるのは人間誰しもの体験だと想像するけれど、わたしはそれを自分で認めることできず…のまま中年になり、昨今、ドカンときて厳しさ倍増。

わたしくらいの年齢ならばたいてい色んなレッスンを積み重ね、自分を慣らし、そこそこ「やり過ごす」その人なりのテクニックを身に着けているのだと思う。

わたしはそういうのをサボりまくっていたから、どこをどうしたらいいのか一ミリも分からない。迷子すぎる。


2022年年末メモより

 

 

 

 

ショートに預ける罪悪感

最近はあまりに自分の具合よろしくなくて、母に寄り添えていないところに、母のいやがるショートステイに行かせることの罪悪感。

「行った先でなにか母のためになること」あるのなら心も軽くなるけれど、食堂でご飯を食べる以外は新聞ながめたりテレビ見たりの時間をすごしているだけのようなので(ほぼ個室にいる)、母のためになっているとは思えない(せめて家の外にいる緊張感が好となればいいのだが)。

母にショートステイに行ってもらうのは、わたしの一人時間の確保の意味で大事と思いつつ、わたし自身もつらい。



コロナの感染拡大、正月休み明けで当分上昇するだろうなぁ、(ショート施設でも何度も感染者出ている)。今の時期に預けるのはリスク大だ。この年末年始は(会ってはいないが)二人の甥っ子もコロナ感染したそうで、コロナが身近に迫っている感は大。

というわけで、今回のショートステイは「断ろうか」悩んだ。

悩んだけれど、今回逃したら次回予約しているのは二週間後なので、それまで(通所リハビリ以外)母とのマンツーマン生活にわたしが耐えられる自信なく、結局、リスクをとった。

そして今日迎えに来た職員さん、咳をしておったぞ。インフルエンザも流行っていると聞くし、どうかどうか無事でいておくれ。



以上のこと書いてても、胸がじーっと痛い。

(預けたからには少しでも気分転換できたと思える時間を過ごそう)